能登半島における建築様式

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能登の民家と自然との共生

能登の大地、そこは日本海に取り囲まれた特異な環境を持っています。
それ故に、人びとはそこで「共存」という現代社会の抱える課題に対するひとつの答えを早くから示していて、今私たちはそこから多くを学ぶことができるでしょう。
 
能登半島は、日本海、起伏に富んだ大地に恵まれて、その場を形成しています。
その環境のもと、冬は日本海を越えて訪れる冷気に、夏は緑の繁茂した自然に、人は向かい合い、そして今までそれに応じた生活を営んできています。
 

社会形成の根幹となるのは環境であって、環境とともに人は社会を創っていく必要があるのではないか、そう感じたのが、この能登に訪れた時でした。

ビルに囲まれ、交通網が縦横無尽に張り巡らされた都市部では、大方、街の構造は一貫性を持ち、「環境」を人間社会が創り出す、そのような意識を感じざるをえません。
山があれば山を削れば良い、場所が欲しければ地下を堀めぐらせ高層ビルを建てれば良いというような、さらに極端になれば、北京オリンピックでも話題にのぼった、雨をふらせない技術というのも、人が環境を無視し、社会形成を行ってきたことを表すことではないでしょうか。



さて、では何故環境の上に社会形成をしていく必要があるのか、そこに斬り込んでいかねばなりません。

まず、社会形成をして環境を創り出す(降雨量の人工調整など)ことによる弊害についてです。
その弊害はズバリ、人間の担う負荷の莫大な増加です。単に「自然をありのままに大切にしましょう」ということではありません。
そこが私の主張のポイントです。

たとえば環境問題といえば、動物保護の問題は重要な位置にあります。
しかし、動物の数は増えもするし、減りもする、繁栄もすれば、絶滅もする。
それらは自然環境のもとで、すべて起こりうる話です。
にもかかわらず、人はそれを絶滅させないようにとか言ったりするわけです。

私はそれは素晴らしいと思う方ですが、問題なのはそれが、「環境を守る」ことではなく、「環境を創っている」ことになっていて、それが莫大な負荷になっている事です。
創るという作業は、自ら文字通り「全て」のバランスを考えねばならず、それに恐ろしい程の負荷がかかる事は言うまでもないでしょう。

それはさらに、共存というカタチを失ったものになっているとも私は思っています。
「共存」、それはお互いがお互いの自由を認め合い、素直に生きていくことだと私は思っているのですが、今の社会では自然保護が人間社会への負荷になってしなっている。
共存というカタチならば負荷はかからないはずなのに、社会の現状はそうではない。
それが、人間が環境を社会上に形成していて自分の思い描く環境を管理する立場を自ら担っていることを示しているのです。

環境を単に維持しているわけではない、環境を創っている、「創る」という莫大な負荷のかかる作業をずっとやっている、だから現代の人間はこうも頭を抱えて悩んでいるわけです。

ならばどうすれば、私たちはこの負荷から逃れられるのか、そのひとつの答えを能登が示していました。

とくに私が見入ったのは、民家の在り方でした。
都市部では、海は景観であり、ヒトはその絶対的な理想をを大事に大事に維持していく。
しかし、ここでの民家は、海や森とともに暮らしていました。
民家のすぐ側の浜辺には台風の跡があり、木々の中には朽ちていくものもあった。
ここに能登の美しさと現代社会の抱える負荷解消への道を見ました。

「共存」、それは絶えず守ることではなく、絶えず創ることでもない。
ともに生き、ともに朽ちていくことなのだと。
ありのままの自然を受け入れ、ありのまま、それこそ「自然に」生きていくのだと。
能登で見た景色は私の心に強く、そう訴えてきました。

そういった関係を自然環境と結ぶ事で負荷は最小限に抑えられ、そこにヒトが環境とともに自由に力強く「共存」する場を形成することができ、このことは、これからの人間の社会をよりよくするひとつのヒントになってくれるでしょう。

歴史という「時」を越えて築かれてきた能登の民家の在り方は、ヒトの奥底に眠る本来的なヒトの在り方を私たちに示してくれています。

北陸先端科学技術大学院大学   古川 幹洋