2007年3月25日9時41分頃、能登半島を大きな地震が襲ったことを覚えているでしょうか。
私たちは、そのとき避難所となった「くしひ保育所」で所長をしていた大倉好子さんにインタビューしました。
実体験した人が語る話はとても力強く、時折目に涙を溜めながら話す大倉さんの話に、私たちは何度も胸を打たれました。
保育所が避難所になった
くしひ保育所の先生方は、地震直後から2週間、避難所として保育所を開放し、子どもからお年寄りまで130人ほどの人たちのために力を貸していました。
一瞬にして自分たちの家が倒壊してしまった人々の心は絶望的でした。同じ境遇の人たちが集まった避難所の中で「だいじょうぶ?」「大丈夫!」、そんな言葉が何度交わされたことでしょう。
ホテルサービスを目指して
そんな中、くしひ保育所の職員の人たちは、保育所にいる間だけでもみんなをホッとさせてあげたいと話し合い、「ホテルサービス」を目指そうと決めました。
「保育所で出来ることは限られているけれど、自分たちが出来ることのすべてをしてあげたい」と考えたのです。
大半の人たちが、昼間は家を片付けるために出かけ、夕方くたくたになって帰ってきます。そんな人たちに、笑顔で「おかえり」と迎え、温かいおしぼりを手渡しました。
朝は目覚ましの代わりに音楽を流し、人々の不安な心を気遣い大きな音を立てないようにするなど、小さなことにまで気を配りました。
小さな子どもに優しい作りになっている保育所の施設は、バリアフリーで床暖房や保温庫を備えているなど、お年寄りや障害者の方、心に痛手を負った方にも優しい環境であり、避難所にとても適していたのです。
避難者を守る
保育所では、何より衛生管理を徹底しています。それがみんなの健康を守ることであり、大勢の人が同じ空間で過ごす状況では、一人が風邪をひくと一気に広まる恐れがあるからです。
暇さえあれば拭き掃除をし、外出から戻ると、アルコールで手の殺菌をしました。その甲斐あって、ここでは一人の病人も出しませんでした。
大切なことは何か
3月下旬は卒業の時期です。当然、こんな状況では無理と、被災した幼稚園、保育所では卒園式を見送りました。
しかし、くしひ保育所では、「卒園式は、子どもたちが初めて親の元を離れた子どもが、様々なことに頑張って乗り越えてきた集大成である。ささやかでも何とか卒園式をしてあげたい」と考え、3月30日に行いました。
保護者や避難所の方々に見守られ、子どもたちは一人一人、修了証書を受け取りました。どの家庭も何らかの被害がありましたが、当日は親も子も精一杯のおしゃれをして元気な姿を見せ、大切な時間を過ごしました。
「人として保育士として、優先順位を間違えてはいけない。地域を守る、子どもを守るために、今一番大切なものは何なのか、しっかり見極め、決めたことを信じて最後までやる。その考えに自分は支えられている。」と話してくれた、大倉さんらしい決断だったと思います。
地域に守られる保育所・・・一本のタオルから
地震は、それを体験した者にしかその辛さや悲しみは分かりません。失うものは多く、地震から三年が経った今でも、心に傷を抱えている人、先の不安で眠れない日々を過ごす人がいます。
しかし、「失うものばかりではなかった」と、くしひ保育所の先生方は言います。避難所で何日も共に過ごした人々の間に生まれた強い絆は、今も続いています。
「最初は本当に大変やったけど、途中から修学旅行みたいな気分やった。違うことと言えば枕投げをしんかったことくらいやね。」と、笑顔で話す先生方からは、子どもや地域を守る保育者の強さを感じました。
避難所で過ごした人たちは、保育所を知り、子どもを知り、「園庭の草むしりは私がやろう。」「運動会や行事は是非見に行こう。」「地域が保育所を守らなきゃ。」と考えるようになったのです。
被災者に最初に支給されたのは、一本のタオルでした。人々はこの一本のタオルに心から感謝し、普段は当たり前にあるものの「ありがたさ」を感じることができたのです。
それぞれのスタート・・・あきらめない
この地震によって見えたのは、能登の人たちの前向きでしなる強さでした。過疎化の進む能登ではお年寄りだけで暮らす家も倒れ、その後余儀なくされた仮設住宅での生活は、不便なことばかり。迫り来る仮設住宅からの退去への焦りや、支援金と年金では先の見通しがつかないことによる絶望感の日々。
しかし、周囲の助けを借り、何より最後まで諦めずに頑張ったことで、それらを乗り越え、「自分たちで家を建て直す」「新しい土地に移り住む」など、不安は抱えながらも、それぞれがそれぞれのスタートを切ることが出来たのです。
大倉さんは、「人間どんな状況に立たされても絶対に希望を捨ててはいけない」と話してくれました。その力強い言葉は、涙が出るほど私たちの心に響きました。