概要
栄華全盛を極めた平家一門も、遂に壇ノ浦の戦いに亡びた。左大臣平時信の長男、大納言平時忠は義経に囚われの身となったが、三種の神器の帰座という任務を全うしたことにより軌殺を免れたものの、やがて京を追われる身となった。
時忠主従16人、日本海の荒れすさぶ能登の最果ての珠洲の浦に辿り着いたのは、1185年(文治元年)9月23日のことであった。時忠亡き後、時国が後を継ぎ、豪農としてあたりを支配するに至った。江戸時代15代長左衛門時秀は十村役を勤め、後に持領が江戸幕府の天領であったところから、大庄屋として苗字帯刀を許され格式を保ってきた。
現在の上時国家は、京都東本願寺の建築にたずさわった安幸という大工が1831年(天保2年)に28年間を経て完成したものだと伝えられ、農村に於ける支配階級の住宅様式と由緒が良く残されている。母屋は回縁を除いて、間口21.6m(12間半))、奥行き13.5m(7間半)、棟の高さ17.1m(9間半)の茅葺入母屋の平屋建である。茅葺唐破風造の大玄関を入ると内部に桃山時代風の公卿書院造、フチ金格天井の御前の間がある。
かつて加賀藩主が訪れたとき「余は中納言ゆえこの部屋に入るわけにはゆかぬ」とあって、天井の一部に紙を貼り格式を外して入室したという逸話がある他、伺いの間、上の広間、下の広間、回り座敷、客間向きの湯殿などがある。 庭園は、心字池を中心に高台と平庭がある江戸時代の京風庭園。内部及び伝来の宝物、家具什器は一般公開されている。
寒さ対策は足元から
桜のつぼみがようやく膨れ始め、上時国家の戸も空けはなたれた頃。外からの心地よい風が家の中を吹き抜けて行きます。
「夏はすごく涼しいんですよ」というスタッフの方。ということは、もちろん冬は...厳しいのです。その為に、この上時国家には幾箇所にも囲炉裏があり、冬の暖をとっていたのだと思われます。
そして受付の近くに目をやると、そこには毛糸の靴下が。冬は足元から冷えるので、受付のスタッフの方々が手編みで毛糸の靴下をお客様用に作られたとのことです。今回の取材もこの靴下をはいてさせて頂きました!温かかったです。
土間
大きな土間があります。昔は土間では餅つき等いろいろなことが行われていたのでしょう。
その名残が見受けられ、土間の隅っこには臼やかめ、脱穀機等様々なものが置いてあります。上を見上げると、大きな梁の骨組や茅葺きが見えます。一番高い部分に少し開口部もあります。
そして、駕篭(かご)が4台ぶら下がっています。今で言うマイカーでしょうか。家の人たちの外出用に使われていたそうで、大きさから見て、大人用、女性用、子供用等があったと思われます。
また、足元をみると、月面のように土間に穴がぽつぽつ。
土間は粘土と石灰、塩を混ぜてそれをたたいて打ってたたいた事から、”たたき”と言われています。長い年月の中で、多くのくぼみができ、梅雨時になると地中の湿気があがって来てくぼみに水がたまるそうです。お客様がすべっては困るからと、スタッフの方が山の木のおがくずを朝土間にまき、水分を吸わせて履き取るそうです。一方夏には乾燥して白くなるそうです。
土間も生きている、そんなことを実感させてくれます。
台所
土間の台所の角には、水が出ています。
後ろの山からの湧き水でしょうか。
竃(かまど)は、最近ではあまり使われる事もないようですが、それでも春にふきやタケノコが獲れると、火をくべて大きな鍋で煮たり、秋分・春分の日にはスタッフの皆さんで餅米を蒸しておはぎやぼたもちを作るそうです。
※記事内容は取材時のものです。掲載情報変更の場合があります。
ご利用・お出かけの際は、お問い合わせ先などでご確認ください。