この記事は、「能登半島移住計画」(2018年8月19日掲載)から転記いたしました。
能登半島移住計画は2021年3月末で終了いたしました。
割烹居酒屋朝漁れ一番哲 会田哲也さん
埼玉県出身。小学生の時から将来自分の店を出したいと思い始め、高校3年生からは、10年間寿司屋で修業する。その後、5年間料理の道を離れるも、一般企業での仕事に違和感を感じ、再び創作料理店で働き始める。2016年に七尾へ移住し、現在は七尾駅近くで割烹居酒屋「朝漁れ一番哲」を営んでいる。
お店を出したかった
会田さんが自分の店を持ちたいと思い始めたのは、小学校3年生の頃だった。
「何でかっていうと、人に頭を下げたくなかったから(笑)」
中学校の時の担任に飲食店を勧められてからは、寿司屋かラーメン屋になろうと決意。
高校卒業後は寿司屋に弟子入りし、10年間修業した。
自分より後から入った若い弟子たちが次々とやめていくような厳しい世界。当時の親方には「普通の寿司屋になるな。寿司屋だけしかできないのは面白くないから、何でもできるような寿司屋になれ」と言われた。
「でも、10年間修業しても独り立ちできませんでした。そんな簡単な世界ではありませんでした」
再び、料理の道へ
27歳まで修業した後、一度料理を辞めて5年間印刷会社の下請けで働いた。
「そこで自分には普通の仕事が向かないことが初めてわかりました。もう全然だめだなって思って。このままここに居続けても…って一回思ってからはやる気がなくなっていきましたね。その時、やっぱり料理の道だなと思いました」
そして、創作料理の店に入り直し、ようやく本格的に自分の店を出そうと思い始める。
“海の見える場所”
自分の店を出す上でずっと考えていたことがあった。“海の見える場所でやりたい。”
最初は金沢の海沿いの街で物件探しをしたが、建蔽率の問題などもあり断念。
そんな時、母親が亡くなった。
「母が亡くなって、やっぱり単身でどこか離れた場所に移住しようと決意しました。海の近くってことともう一つ、日本海の魚も選ぶポイントだったので、それからは日本海側の候補地を全部見て回りましたよ」
それ以外にも、創業に関する補助がしっかりした場所かどうかということも、常に気にしながら周っていたという。
「そんな時に七尾を訪れてみて、いいなと思ったんです。もちろん、その頃から太田さん(取材当時:七尾街づくりセンター移住コンシェルジュ)とは連絡を取っていて、七尾の話を聴いていました。あと、当時朝ドラで『まれ』が放送されていたことにも影響を受けましたね。あれで石川なら金沢よりも能登の方がいいなと思いました」
こうして、能登の真ん中にやってきた。
移住先を選ぶときは…
移住者として、移住先の選び方には持論がある。
「これは人それぞれだし色んなやり方があると思うけど、やっぱり週末だけ来て、街を見るとかっていうのは、あまり正しい選び方だとは思いません。ちゃんとその土地に滞在して生活してみないと、その土地の良い所、悪い所っていうのはわからないじゃないですか。ぼくはすっぱり仕事を辞めて、色んな候補地に滞在した上で、七尾に決めました」
街は前に進もうとしている
そんな会田さんから見て、七尾の街の印象はどう映ったのか。
「七尾はちゃんと受け入れてくれたし、自分自身どんどん先に進めるかなという感じがしました。七尾の街の取り組みとかを見ていても、街として前に進もうとしているなと。いずれ日本全体で見ても人口減少とかって止められないと思います。どう頑張っても。そうなったときに、街にこれからを生きていく力とか、立ち向かう雰囲気があった方がいいですよね。そういう意味でも七尾に来たことはすごく良かった」
“あたたかい”お店
店内には、昭和をイメージした置物やポスターが数多くある。
観光客や地元の人が毎日来たいと思える、“あたたかい”お店にしていくことが目標だ。
メニューも会田さんが毎回考えて変えていく。
「ぼくは移住者じゃないですか?だから、七尾にあまりないものを出しています。基本魚なんですけどね。魚以外の料理は七尾では普通出されていないものばかりです。お客さんが食べたそうな料理を考えて、毎日出すようにしています。もずく天とかいぶりがっことか。この辺のお店では出していないでしょう。お客さんが来て、あったら食べてみたいなと思いそうなものなんです。だから、これといったメニューっていうのは普通あるんですけどうちはなくて、お客さんに合わせたメニューを心がけています。」
漁れたての魚がやっぱり一番。
七尾の夜を、「哲」のあたたかい灯りが照らしていく。
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