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のとだより
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学生プロジェクト

震災と能登の人々 -能登半島地震調査の現場から-


1.被災地をはじめて回った日

■輪島にゆく
 2007年5月2日に私達は1台の車にのって金沢を出発し、
   輪島→曽々木→門前高校→鹿磯、道下→門前じんのびの湯→穴水
というルートで、震災後の能登半島に入った。
 私達は、金沢大学文学部社会学研究室の教員と学生・院生、研究員からなるグループで、「能登半島地震が産業等に与える影響」というテーマの社会学的研究を行うことになっていた。しかし、本震のすぐあとに能登半島に出向くことには少しためらいがあった。というのは私達が目指す社会学的な研究は、人々の生活にある程度近づいて観察し、話を聞くというスタイルになるので、被災地の人々の邪魔になることをおそれたからであった。
 本震後、約5週間がたって、避難所が閉鎖され、仮設住宅への入居が開始されたのが、この5月2日という日であった。本格的な調査はしばらく後にすることにして、まず被災地をまわって、状況を確認することが、この日の目的だった。この日のメンバーは、連休の谷間ということもあって、私、同僚の社会学の轟先生、学部4年生の根津君の3名だった。
 
 輪島に着いてから、ちょっとした買い物をするために電機店を探したら、「ヤマダ電機」にいくようにすすめられた。人口が3万人強のところにも、新しい量販店が進出している。私達にとっては、ちょっとした驚きだった。
 
 買い物をすませてから、ボランティア・センターに寄った。学部生の根津君が、ボランティアをしたいと希望していたからである。根津君の実家は、新潟県十日町で、2004年の「中越地震」を経験した。そんな背景もあって、根津君はこの日ボランティアをすることにしたようだ。私達はここで根津君と別れ、二ツ屋町にある輪島市役所に向った。
 
市役所一階には、「罹災証明発行」や「被災者生活再建支援窓口」の案内板が出ていた。上階にあがって廊下を少し歩いてみた。ある部屋では、被災者と思われる人が市役所の人と相談をしているようであった。生活再建に向けて、相談に来た人のようだった。
 外部からの訪問者に対応する担当者のところに行って、名刺を渡し、簡単なご挨拶をした。忙しい時期に突然訪問して申し訳ないという気持があったので、ご挨拶をしただけで早々に市役所を後にした。
 輪島朝市の海側にある駐車場に車を置いて、朝市通りに出かけた。駐車場には観光バスが台数は少ないが何台かとまっていたように記憶している。朝市の露店はいくつか出店していたが、観光客の姿はまばらだった。新聞記事によると、地震後しばらく休止状態に近かった朝市は、4月11日から本格的に再開したという。
 
 「朝市組合」事務所に立寄って、入り込み客数について簡単な質問をした。客数は現在1日1,000人程度、昨年同期の1/4くらいであり、まだ十分には回復していないとのことであった。この事務所には10年前にも来たことがある。係の人は代わっていたが、部屋の様子は何一つ変わっていなかった。
 
 同僚の轟先生のかつての教え子であるKさんが市内で美容室を営んでいる。事前に連絡をとってあったので、Kさんの美容室におじゃました。同僚は以前、町野高校の教員をしていたことがあり、Kさんはその時の教え子なのである。同僚は彼女のことを「Kちゃん」と呼んでいた。
 
 地震の時、Kさんはどうであったか、率直に質問した。
 「私は1階にいて、小さな子供2人は2階にいた。大きな揺れの中で、『動くなー、動くなー』と叫んでいた。(自分では2階の子供に向って叫んでいたつもり。)揺れがひどくて動くこともできないし、(物が倒れたり崩れたりする音が)うるさいので、私の声が2階に届くはずもなかったけれど。
 棚に置いてあったものはみな落ちた。たとえば、美容室にくるお客さんのために置いてあったテレビは、棚の上からここまで(反対側の壁の近くまで)飛んだ。日曜の午前9時半すぎで、お客さんがいなかったからよかったけど、お客さんがいたらあぶなかった。
 「余震があるとこわいけど、最近ではだいぶ慣れた。」
 
 Kさんは、私たちにとってはじめて直接会話した被災者だったので、彼女の話は印象によく残っている。やはり母親となので、子供のことをまっ先に心配したのだろう。「動くなー、動くなーと叫んだ」という言葉が今も耳に残っている。室内のものが落ちたり倒れたりしたが、家屋そのものの被害は少なくて済んだ。帰り際にお店を外からみて、壁にひびがはいっている箇所を見せてくれた。いずれ建物の手入れをすることになるのだろう。
 
 Kさんは別れ際に用意してあったお弁当を轟先生に渡した。お弁当は1人前であったが、駐車場の車の内で私もおすそわけにあずかった。小さ目のおにぎりがいくつか入っていて、ちょっとしたおかずが添えられていた。色どりも配慮されていた。震災の後で大変な時期であるのに、昔の先生のためにお弁当を用意してくれていた。Kさんの気持がうれしかった。
 
■重蔵神社
朝市通り東詰めにある重蔵神社に向った。市内にはところどころ更地が目についた。被害にあった建物をとり壊し、片づけた跡なのだろう。壁に青いビニール・シートをかけている家もときどきあった。
 それに比べると、重蔵神社の被害は、まだ生々しい姿のまま残されていた。鳥居、燈籠、塀など、石やコンクリート製のものが被害を受けていた。神社と道路の境にあった石の棚はほとんど倒れたようだった。石の燈籠も地面に崩れ落ちていた。倒れたり崩れたりした石造の建物が、そこかしこに片づけられて積んであった。石燈籠はいくつかのパーツを組みあわせて積んであるだけだったのだろう、地震のために、もろくも大地に崩れて散らばっているものもあった。
 この重蔵神社の被害が全体でどのくらいのものだったのかわからないが、石造の建造物の復元だけでも手間暇がかかるだろうと想像された。氏子集団がまとまって、復興にあたるのだろうが、よその土地にいっている氏子も多くいることだろう。そういう人たちが地元に帰ってくる機会に、話しあって費用を工面しなければならないだろうから、ある程度の時間がかかるかもしれないと思った。
 重蔵神社の外側を歩くと、瓦がのった土塀があった。そちらは崩れた箇所はなかったが、ところどころひび割れが入っていた。
■国道249号を曽々木まで走る
 国道249号に出て、曽々木方面に向うことにした。同僚の轟先生は町野高校に勤めていたとき、曽々木に下宿していた経験がある。249号を北東にいけるところまでいってみよう、ということになった。
 国道を走ると、片側通行になっているヵ所が数ヵ所あった。右側の斜面から土砂が崩れた箇所だろう。金沢にいてTVなどの報道を見ている限りでは、いくつかのトンネルが通れなくなっていることは知っていた。しかし、それ以外の市街地をはずれた国道の状態はわからなかった。実際に来てみると、トンネルが通行止めになっているばかりではなく、国道にもやはり被害が出ていることがわかる。
 途中、千枚田を見る。みやげもの販売の女性にきくと、千枚田には被害は何もなかった。畔が崩れたこともなかったという。

 左手にかつての町野高校校舎をみて過ぎる。町野高校は近年統廃合の対象になって、現在では使われていない。かつてこの高校で教師をしていた轟先生によれば、学校を統廃合すると、過疎化に一層拍車がかかる。そういう無茶なことはしない方がよい、というのが彼の持論である。
 曽々木の窓岩のあたりまで行く。轟先生がかつて下宿していた家のある集落で車を停める。かつての下宿の家屋は健在だったが、声をかけても誰も出てこなかった。不在のようだった。家の脇に犬が一匹つながれていて、元気よく吠えていた。この集落全体に人の気配がなかったので、集落のみんなで連れだってどこかに出かけたようだった。

 少し先にゆくとトンネルがあって、通行止めになっていた。249号を通って珠洲方面に行くことはできないわけだ。
 北陸地方整備局の名前が入った黄色い重機が一台、通行止めの掲示板のわきにとまっていた。工事をしている気配はなかったが、この重機でトンネルの開通工事を行うのだろう。
 来た国道を引返し、門前方面に向う。門前高校を訪問する手はずを、轟先生が昨日のうちに整えてくれた。改めて、海側の窓岩を見直す。冬になったら、海は荒れて風も強いだろう。轟先生は冬期にもここに下宿していたという。彼の下宿は民宿を営んでいたというから、賑やかさや温かさがあったのかもしれない。しかし、私であったら冬期は耐えられないだろうと思った。
 
■門前高校訪問
 門前に向う道からみると、まだ青いビニール・シートを屋根にかけたままの家屋が目立つ。地震で屋根が傷んだのだろう。修理工事を請け負う業者の数には限りがあるだろうから、順番に直してゆくとなると、時間がかかるだろうと思った。
 車で走る路面に、ときどき小さな起伏があるようになった。これも地震のせいなのだろう。門前高校では、校長先生と教頭先生のお二人が待っていて下さった。校舎は事前に耐震工事がしてあったので、ビクともしなかった。玄関付近で地面が沈降したらしく、ヒビ割れが入っている。建物の壁の下部にヒビが入っている箇所がある。校長室の大きな金庫が倒れた。日曜の午前だったので人は誰もおらず、大事にならずに済んだ。この金庫を起こすときは、男性4~5人で元の状態に戻したそうだ。
 お伺いした5月2日午後、校長室には、石油ストーブが使用されていた。もし地震が平日の日中であれば、この石油ストーブの火はどうなっていたか。自動消火装置が作動したはずであるが、ともあれストーブを使っていない時刻に地震が起きたことは不幸中の幸いだった。

 それから校外の話に移った。道路のこと、家屋のこと、被害が大きいところは、鹿磯(かいそ)、道下(とうげ)、黒島の三地区であること、等々。
 倒壊した墓の修復について、質問した。すると、教頭先生がご自分の家の墓が倒壊して、修復するのに100万円かかったという話をされた。そして今になってはじめて気づいたように、「私も被災者なんですね」と言われた。地震後5週間たっても、自身が被災者であるという意識を明確にもっていなかったように見受けられた。教頭という立場上、在校生や近隣の世話で忙しく、自分のことにまで頭がまわらなかったのかもしれない。あるいは単純に気が動転していたのかもしれない。
 そのあと、社会科の若い先生が話の輪に加わり、地震以外の話題になった。私は文学部の広報委員長の立場でもあったので、次年度に予定されている「新学類」への改組のことを説明した。

 玄関から外に出て、もう一度校舎を見上げた。耐震補強のための鉄骨が校舎の壁の上からしっかり組まれている。これがあったおかげで、校舎本体の被害がなかったわけだ。地震のない時であれば、この耐震補強は不格好に見えたかもしれない。しかしこの時はとても頼もしく見えた。
 玄関脇に据えられていたのであろう、石造の記念碑のようなものが、台座からずり落ちてかしいでいた。
 
■鹿磯、道下、黒島方面に向かう
 校長先生、教頭先生、社会科の先生の三人に見送られて、門前高校をあとにした。
 少し先で、壊れた住宅を小型の重機が整理している現場があった。車を降りて、その現場のまわりを歩いた。
 おそらく半壊程度の被害にあった住宅を取り壊して、片づけられる状態にしたのだろう。手元の写真をみると、家屋の部品はすべてばらばらに裁断され、原形を残しているものはトタン板くらいであろうか。家屋は、新築するときは丁寧に柱が1本1本たてられてゆく。しかし、壊すときは建てたときの手順を逆に踏んでゆくのではなく、重機などを使って一気につぶしてしまう。解体というような感じではない。つぶして廃棄物の集積にしてしまう。無残な印象を強く受ける。
 小型の重機が動いて、壊した家の上に乗って止まった。何をしているのかよくわからなかったが、上から重しをかけて圧し潰していたということだろうか。形あるものは壊れる、寿命はいつか尽きる、私達人間もいつか土に還るのだ、などという思いにとらわれる。土地の人たち数人がその現場を見守っていた。誰も無言であった。その家の住人もまじっていたかもしれない。胸中を察するにあまりあるものがある。

 またしばらくいくと、道路沿いにやや傾いで建っている二階家があった。入口はすべて開け放されて、すでに人が住んでいる気配はなくなっていた。参考までにと思い、入口の土間までおじゃました。危険度を示す「赤」あるいは「黄」の札は眼につかなかった。家の内部を見ると、一階は間仕切り壁がなく、襖をとっぱらうと、ひと続きの大広間として使えるつくりだった。柱はしっかりしていたが、はすかいに入るべき構造材が足りないようだった。家財はすでに持ち出された後のようで、住んでいた人は危険と判断して別のところに移動したのだろう。この地域では複数の部屋をひとつづきの大広間として使うために、「筋交い」が十分に入っていないことがある。そういう家屋は地震に弱い、という話を時々聞くことがある。この二階家もそのような「筋交い」不足の一例なのだろう。黒光りのするしっかりした柱が入っているのに、それらの柱がすべて同じ方向に傾いでいる。このような造りの家屋がこの地域に広がったのはいつの時代からのことだろう。「農地解放」以降のことではないかと推測する。
 

 3月25日の本震は鹿磯・道下の海岸線近辺と推測されている。動いた断層線は、震源から北東―南西の方向に伸びていると推測されている。したがって私達の車が進むにつれて、しだいに地震の爪跡が目立ってくるようになった。青いビニール・シートのかかっている家屋が多くなり、路面の起伏や応急処理のあとが多くなってきた。

 八ヶ川河口付近まで来て車を広い駐車場にとめる。駐車場に隣接して道下地区仮設住宅が建てられていた。橋を渡って鹿磯地区に近づく。離れたところで、川の護岸工事が行われていた。地震で堤防の傷みがあったのだろう。護岸修復工事のそばに、廃棄物の集積所があった。壊れた家屋が廃棄物になって、この集積所に積まれてゆくわけだ。かなりの量が運び込まれたようで、遠目にも少し小高い小台地状になっているのがわかる。重機が1台稼動していて、クレーンを高々と空にのばしていた。トラックが1台停まっていた。トラックの荷台から廃棄物の入った袋を集積所に移動させるために、そのクレーンが働くのだろう。

 「鹿磯港」の方向を示す標識のところまでいって、そこでUターンした。鹿磯の集落は青いビニール・シートがとくに多く目立っていた。そういう集落によそ者がカメラをぶら下げて入ることがためらわれたからである。
 
■仮設住宅の脇の駐車場で
 門前地区のボランティア・センターの前に行った。中には入らなかったが、架設のトイレなどを参考までに見た。その前、海岸に面したところに、門前道下地区の仮設住宅が建てられていた。私達は仮設住宅のわきの広い駐車場に戻った。そこから、輪島で別行動になった学部生の根津君に携帯で連絡をとった。根津君はちょうど門前地区のボランティア・センターにいた。すぐに合流することができた。

 以下は根津君の話。輪島では家財道具を車に積み込む仕事をした。昼時になって、ほかのボランティアたちと食事にいった。現金をあまり持ってこなかったので、800円の食事代がぎりぎりだった。輪島ではもう仕事がなかったので、門前の方へきた。門前でも仕事はなかった。ほかのボランティアたちと話をしたが、彼らはボランティアの経験豊かな人が多く、いろいろな所でボランティアをした話を聞かせてくれた。ほとんどが大学生だったが、社会人のようなの名刺をもっていた。根津君も手作りの名刺を用意していたので、名刺交換ができたと喜んでいた。彼は手持ちぶさただったので、鹿磯集落の中を歩いたといっていた。集落の中では撮影禁止だとボランティア・センターでいわれた。集落の中はすでに整理されていて更地になっている土地も多かったということだ。
 根津君にとってこの日のボランティアは、よい経験になったろうと感じられた。

 この日が仮設住宅の入居開始日だったので、仮設住宅に住む人の姿はほとんど眼にしなかった。私達も仮設住宅に近付くことは遠慮した。海岸よりも一段高く土盛りをした上に、住宅が仮設されていた。海に面した場所であるので、冬の厳しさは格別だろうと思われた。
 
■黒島の海岸線を走って「じんのびの湯」までゆく
 黒島の集落には入らず、海岸沿いを南下して、道の駅を過ぎ、「門前じんのびの湯」まで行った。海岸線を走ると、左手に「番屋」(漁業用の倉庫のこと)が並んでいるところがあった。「番屋」の列にもところどころ、櫛の歯の欠けたような空間があり、地震で被害を受けた「番屋」を片づけたあとかと思われた。
 「門前じんのびの湯」は海岸線から入った丘の中腹にあり、公営の宿泊施設「ビュー・サンセット」と並設されている。震災の後、お風呂に入れない人達がいただろうが、ここまで来てお風呂を楽しんだ人達はどのくらいいただろうか。お年寄りのための送迎の車は手配されていたろうか。施設の中には入らずに駐車場で車を降りて、眼下の眺望を見はらした。海の景色は雄大である。内陸部にみえる集落には、青いビニール・シートのかかった家屋が点々とみえる。夏にここにくれば、海はさらにきれいだろうが、青いビニール・シートはどうなっているだろうか。おそらくまだ残っているかもしれないと想像した。
 
■再び被災地の中を通って、帰途につく
 「じんのびの湯」から来た道を戻った。道下付近でさっき通ってきた道よりも手前の道へと右折する。右手に見えるところが、黒島ではないかと車の中で話す。「道下栄町」というバス停を過ぎた。「道下」と一括される地区の中を走っていたようだ。両側ともに、道路端ぎりぎりまで家並みが迫っていて、それがしばらく続いた。傾いた家が多く、修復の手がまだまわっていないようだった。
 「赤」の紙には「危険」と書いてあり、「黄色」の紙には「要注意」と表示されている。「緑色」の紙には「調査済」と書かれている。家屋の「危険度判定」がすでに終わっていることがわかる。今回の能登半島地震では、中越地震など最近起った地震、震災の経験を生かすことができた、という報道の記憶があるが、この「危険度判定」が素早く完了したこともその一つのようだ。
 赤、黄色の紙がはってある家並みの続く道路には人の気配がなかった。私達も車をゆっくり停めるという気になれなかった。ともかく通り過ぎようという気分、というのが当をえた表現だろうか。

 家並みの続く道を過ぎたところに、1軒の石材店があった。墓地の修復を含めて、石材店も忙しいだろうと推測した。石材店の敷地内に現在置かれている石材は、壊れて散乱した石を整理するためにここに一時的に保存しているのか、それとも、これから修復に使う新品の石材なのか、車内の3人の間で議論になった。今回は来れなかったが、私達の調査グループに、墓石の倒壊と過疎化について調査する予定のメンバーがいる。この石材店のことを、そのメンバーに伝えようということになった。

 穴水に着いたところで、中国料理店に入り腹ごしらえをした。振り返れば、今日一日ゆっくり休むということをしなかった。被災地にはじめの一歩を踏み入れることだけを目的にここまでまわってきた。私たちが今後追求すべき研究課題にはどのようなものがあるか、という点に頭をめぐらす余裕はなかった。というよりも、被災地に入るということがどのようなことであるか、皆目見当がついていなかったという方が正直かもしれない。

 今この文章を書いているのは2008年3月のある日である。この時点で振返れば、2007年5月2日の経験は、本当に、第一歩であった、それ以上でもそれ以下でもなかったと思う。
 第二歩となった経験は、2007年8月10日に、主に輪島市役所を訪問して、震災に関する概括的な説明を受けたことである。次にそのことを書いておこう。
(溝部明男)
 
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