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学生プロジェクト

能登半島地震被災地域における歴史資料調査


 1.能登の塩と古文書-延武文書-

■延武文書とは
 能登は半島国です。その地理的条件によって、平野の村落・海辺村落・山間村落の古文書、町場の古文書、海運の古文書、寺院・神社の古文書など、多種多数の古文書が残っています。近代以降の社会の変化がそれほど激しくなかったことが、このことを可能にしたものと思われます。こうした文書の中で、ここでは「延武文書」をとりあげましょう。「延武文書」は十村文書の一つです。十村というのは、加賀藩が村落統治のために百姓身分の中から任命した村役人で、通常数十か村を支配するものです。
 この「延武」とは、珠洲郡若山川中流域(現珠洲市若山町)に居を構えた大百姓の名で、おそくとも戦国末期には同地域で指導的な力をもった存在でした。天正中期(1580年前後)の能登は、断続的に戦争が起こりました。その一つの中心であった越後の長景連の能登侵攻に対する畠山氏の迎撃戦の一つである鹿野浜(現珠洲市野々江町)の合戦、その後の前田利家勢による棚木城(現鳳珠郡能登町)合戦などの戦いにおいて、延武は長景連に与同せず、前田利家に従ったことを由緒で謳い、利家から25俵の扶持を給与され、以後百姓として利家の村落支配の一端を担いました。

 
■天正十五年分若山延武方年貢算用状
 掲載した写真は、延武文書の中の「天正十五年分若山延武方年貢算用状」です。文書の奥に二ヶ所捺されているのは、前田利家の印(印文「利家長寿」)です。延武が利家の蔵入年貢算用を委ねられていたことがわかります。こののち、慶長9年(1599)、加賀藩領では、延武のように扶持を給与された百姓が十村に任命されていきます。
■新潟や酒田にも送られた能登の塩
 若山組十村延武が能登の歴史上勇名を馳せるのは、寛永4年(1627)に始まる奥能登蔵入地支配においてです。寛永4年、加賀藩は、奥能登珠洲・鳳至二郡を藩主の直轄地にし、奥能登の特産品である塩を藩庫に全面的に収納し、塩の専売制を展開させました。このような塩専売政策は、当時、藩の算用場奉行を務めていた稲葉左近直富が、三代藩主前田利常に進言したことによって始まったもので、加賀藩に大きな財政収入をもたらしました。十村延武は、この加賀藩の奥能登蔵入地支配の一翼を担って、年貢収納を中心として活躍しました。その年貢収納に関わる文書が、延武文書の中に多数残っています。
 若山組は、海岸に直接面しておらず、内陸に位置する村々ですが、その年貢算用を見ると、若山組の村々が塩を生産していることがわかる文書が多数見られます。内陸の村々がどうして塩の生産が可能だったのか、不思議です。しかも、若山組で生産された塩が、遠く新潟や酒田にも送られていることが特筆されます。塩を運ぶ船はどのように調達されたのか、能登の海運事情はどうだったのか、など次々と新たな疑問がわいてきます。
 
■世界に旅立つ能登の塩
 3月10日付の北國新聞夕刊で、ニューヨークで開催された食の見本市に、珠洲の天然塩と地酒が出品され、マイルドな味わいにおいて類まれな塩であると絶賛されたことが報道されていました。その塩が、近世日本海沿岸の人々の日常の食生活に普通に使用されていたとなると、当時の人々が現在の食塩を使用した食品を口にしておいしいと感じるのかどうか、興味深いところです。
 能登には、この塩の関係の古文書はまだまだたくさん残っています。これらの古文書から、能登の塩に関して新しい観点で研究する作業がこれから本格的に進められていくことでしょう。それとともに、現代における能登の塩が、世界に向けて新しい展開をする、そんな予感がします。

 
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